ダンスコミュニケーション仙台
ダンスコミュニケーション仙台の活動記録
ステージに置かれたのはひとつの椅子だけ。
気になりながらも通り過ぎていく人々。
誰かが興味を示すと自分も振り返らずにはいられなくなる。
椅子をめぐり幾人もの通行人がおりなす心の動き…。
「みんなと同じ」を求めるあまり、常に他人を気にして行動する現代人をコミカルに描く。
横並び意識をやめて、お互いの視点の違いを認め合うことで、新しい世界が広がっていくのではないか。
自分と他人、個人と社会など、日常生活に存在するさまざまな「はざま」をテーマに本当の自分らしさとは何なのかを問いかけた。
衣装の色を替えてキャラクターの違いを明確にしたり、コンクリート風の板を使って人と人を隔てる「はざま」を象徴的に表現したりと、視覚的な工夫が印象的な舞台。
自己と他者をあるがままに受け入れ、愛おしみ、認めあうというテーマを、等身大の人形や映像とホットなダンスで表現。
以下は河北新報掲載文より(抜粋)
現代社会の無関心、疎外感をテーマにしてきたシリーズの集大成。いわゆるダンス的な表現が今まで以上に取り入れられた。
舞台に置かれた三台のテレビが両目を映し出す。見ているはずのテレビに見詰められる不思議な感覚。ほかの場面でも映像が効果的に使われた。
前を見たまま後ろに倒れるダンサーを別のダンサーが後ろから支える。いくつかの象徴的な動きが繰り返され、かかわりあっているようだが、本当に共鳴しては いない孤独感。一人では支えきれない人生、自分を愛することもできない、かといって人に助けを求めることもしない。その苦悩を大前雅信がソロで踊る。いつ しか動きが同調し、“対話”が始まる。
エンディングでは全員が、等身大の人形を足にくくりつけて踊る。時には重く感じたり乱暴にぶん投げたりしたくなるが、大切な存在。かき抱いていとおしむ動 作に、人間の腕は何かを抱き諦めるためにあるのだと思わせる。本当の自分を知ること、知られることを怖がらないでというメッセージに、温かい気持ちにな る。
独自の空間を作り出す藤野準の音楽と、美しい照明も印象に残った。
「空を見た」「アインシュタインの散歩」「愛の残像」「通りすぎた風」「し・あ・わ・せ」「家族」「ヤミヲツク」の7作品を組み合わせた4日間の公演。
写真は「空を見た」より、グレツキの音楽ともあいまって、いわゆるコンテンポラリーダンスの印象。エネルギーの抑圧感が、六人の群舞に凝縮された。
「ヤミヲツク」は前田清実招待作品。
ダンスという表現芸術をより幅広い観客に知ってもらおうと仙台演劇祭’97に参加し、二作品を上演。「兎はなぜ跳ねる」は東京で活躍する振付家中村隆彦の書き下ろし振付作品。
人間の内面をウサギに模しながら、その葛藤や開放を描く。櫻井由美が客演。楽しさとユーモアと深い象徴性が混然一体となった秀作。
「晴れた日に」より…人々がそれぞれの日常に抱える“荷物”を女性ダンサー六人が象徴的に表現する。パステルカラーが基調。衣装の色に合わせたクッションともデイパックともつかないオブジェを効果的に使い、日の移ろいにつれて人の在り方や関係が微妙に変化するさまを描く。人生という荷物もあんなに軽々と背負えたらどんないいいだろうと思わせられる。
宝箱にしまっておいて、たまに取り出して眺めたくなる記憶。出来ることなら二度と出会いたくない封印してしまいたい記憶。
生きてきた時間だけ記憶は万華鏡 のように重なり、今の僕がいる。そして、記憶は、反芻するごとに膨らんでいく。あれ?どこまでが僕の思い出なの?明日、どっちに向かって歩いていいか判ら なくなった時、僕はそっと箱を開けてみた。僕は…。
暗闇の中、観客席に潜んでいた出演者八人が、太ももをリズミカルにたたきながら登場。意表をつく公演の幕開けで、観客を作品世界に一気に引き込んだ。
主題は混迷の度合いを深める現代社会のコミュニケーション。言葉の力に頼らず、ささやきや絶叫、軽やかな歌声などを多種多様な動きで象徴的に表現した。身 体表現の可能性の豊かさを実証する熱演だった。併せて、自分の居場所はどこか。確立された個とは…。そんな人間存在をも考えさせる「肉体の能弁さ」を 強く感じた。
舞台を真中に設定し、観客が四方を囲む演出が奏功した。ダンサーは前半から呼吸がぴったり。メリハリの利いた動きで舞台を縦横無尽に舞い、時には幾何学模様を描くような複雑な動きで見せた。
舞台と客席の境目を極力なくし、汗をしたたらせたダンサーが観客のすぐ目の前で動くことで一体感も増した。ダンサーが発する気が会場を包み込み、濃密な芸術空間が生まれた。
約一時間の公演を支えたのは、鍛えぬかれた肉体が織りなす圧倒的な運動量だった。クライマックスの激しいリズムに合わせ、体力の限界に挑むかのようなパフォーマンスは緊迫感に満ち、観客の心をつかんだ。